反信タイガー・・・イニセエ!

 僕は負けずぎらい、というか、ひとにナメられるのが嫌いである。まぁナメられるのが好きな人もいまいと思うが、僕もまた、人なみに、あるいは人一倍に、見下されるのには耐えられないところがある。耐えられないったって、耐えるしかないことがほとんなわけだけれど。

 だからかどうか、勝負ごとというのは苦手で、たとえば将棋は好きだが、将棋を指して勝ってもあまり嬉しくない。「あらら勝っちゃったよ、気の毒したな」という感じで、僕なんかに負けてさぞ悔しいだろうなと相手のことが気になってしまう。だが、負けるとやはり悔しくて、だから、勝負ごとをしても、けっきょくどうしたっていい気持ちになれない。

 思想的な結論としては、僕は、スポーツを筆頭に「勝つか負けるかの闘いをすること」の正当性を否定する。勝ちたいと思う気持ちというのは醜いと思っている。勝つというのは相手が負けることだからである。他人の不幸をめざすことが、正々堂々たる目標であり得るだろうか。

 これに反して、たとえば陸上競技で、かつて誰も跳べなかった距離や高さを跳ぶであるとか、かつて誰もそんなに短い時間では進めなかった距離を、短い時間で進んだだとか、そういうことを目指すのは、べつに結構というか、やりたければやればいいと思う。だが、相手を打ち負かす「勝負」型の競技というのは、早くこの世から無くなるべきだと思っている。ことにワールドカップのような「国対抗」のものはいけないね。あそこから国際的な友好関係が育つとは僕には思えない。

 逆に、サッカーで負けた恨みを戦争で晴らそうと思う奴は、出てこないとも限らないという気がする。この点、誰か反論ありますか。


 まぁそういうわけで、和気あいあいと草野球やパターゴルフに興じている人たちを見ても、自分が加わりたいとは思わないのである。


 ところが、その主義に反して、阪神タイガースが試合をしているのがたまたま目に入ると、「どうなんだろう」と思ってつい見てしまったりする。

 どうせ滅多と勝ちやしないのにな。

 さきの「勝負否定」の思想はひとまず置き、「もし」勝ち負けを争う競技を見世物にする商売があって良いのだとすれば、「もう結果はほとんどやる前からわかっている」ようなモノについては、お金をとるべきでないと僕は思う。その試合から正当の収益を得るべき人たちがいるなら、「負けるときまっている側」が費用を負担して穴埋めすればよい。

 たとえば名古屋ドームで戦うタイガースなんて、何をやったってけっして勝てないのだ。(10回に1度や2度まぐれで勝つことがあっても、勝負ごとにおいて8割9割という負率は、ほぼ「必ず負ける」に等しい。)だから、名古屋ドームでのドラゴンズ対タイガースの試合の3塁側は入場無料とし、衛星テレビなどの聴取料もタイガースファンの視聴者に対しては還付すべきものである。その費用は、あつかましく何億もムダにもらっている選手、そして監督・首脳陣やフロントその他、球団のあらゆるプロフェッショナルたちが分担して負担すればよい。当たり前のことだろう。誰が「結果がわかりきっている」ものにお金を出すいわれがあろうか。

 それかさ、1塁側のファンからは倍の入場料とるとかね。勝負ごとで、勝つとわかっていて見られるというぐらいの極楽はないのだから、それぐらい取ってもいいかもねぇ。ホント結構なご身分でざぁますわねぇドラゴンズファンの皆さんは。でもそれだけいい目をしてるんだから、金ぐらい出せよなお前ら。だいたいGWで3万人ぽっち入って喜んでるとか、何だよそれ。愛知はこの不景気でも勝ち組の筆頭、日本一の金満県だろ、金持っているくせに。3万なんて甲子園ならガラガラの部類だっての。

 同様に、同じ投手に10連敗とか、同じ投手に2回も3回も続けて完封されたとか、そんな場合も、その投手が投げるときの負け側チームのスタンドは無料にすべきだろう。かつてタイガースが大野とか川口とか(いずれも広島カープの投手、前者は現カープ投手コーチ、、後者は現ジャイアンツ投手コーチ)に10何連敗とかしていたとき、僕は切実にそう思ったね。

 「勝てない可能性が高いのかも知れないが、ひょっとすると今度こそ勝つのではないか」と思うからこそ、ファンは球場につめかけたり有料テレビのチャンネルを合わせたりする。それなのに、眼前に展開されるのは、あいも変わらず、前回同様にブザマに負ける姿。なんという裏切りだろう、実はけっして勝てないとあらかじめ決まっていたのだ。

 そんなことを性懲りもなく何度も何度も続けるような奴に、お金をもらう資格があるものか。

40歳すぎた投手に無安打無得点試合をやられ、そして相変わらず46歳にもなった同じ投手にやられ続けているとかさ。そういう球団や選手に存在意義はないので、とっとと店をたたんでもらいたいと思う。


 もちろん、負けることがあってもいい。逆に、いつもいつも勝てるわけではないのは当たり前のことだし、結果が最下位であってもいいのである。だが、いつもいつも同じ相手に同じようにえんえんと負け続けているから、そんな「結果のわかり切ったもの」でお金を取る資格があるのか、と問うているにすぎない。

 だが、ほんとうにタイガースはそういうことをやってくれる。僕は、タイガースファンでさえなければ、きっと実際より5年ぐらい長生きができたろうと思う。僕が死んだときに、もしも惜しんでくれる人がいるなら、「あぁ、タイガースファンでさえなければ彼ももう少しは生きていたのだろうに」と嘆いてください。


 最近、エンゲルスの『反デューリング論』(岩波文庫)を読んでいた。何度目かの再読である。

 いまどき、こんな本を読む人間も、そう多くはなかろう。前々世紀(なんだな)にはあんなに輝いていた科学的社会主義・弁証法的唯物論の思想だが、今やもうぼろぼろで、日本などではほとんど顧みられることもなくなった。しかし僕は、今でも、この当時のマルクスやエンゲルスがそんなに間違っていたとは思えないでいる人間なのだ。むろん、彼らの言ったことの何もかもが正しかったわけではないのは当然だけれど。

 「過剰生産恐慌」についての概説がある。まったく、こんなに生産力があってモノはあり余ってるのに、まさにその故に人々がそれを買えなくなり、その結果みんなが困り、たくさんの人が仕事を失い、あげくに自殺だとか心中だとか、あるいは気力を失って路上生活者になって凍死だとか(今夜は飛び切り寒いらしい)、本当にバカな話だ。今もそれが、あいも変わらず繰り返されているのである。「バブル崩壊」はもう20年も前のことになったけれども、あの時の恐慌から、日本経済はいまだに本質的に立ち直れないでいる。

 もっとも、ここ10年ほどの日本の不況については、「社会の高齢化」という問題が大きな作用をしたとも言われる。一人あたりの生産高はそんなに悪くないのに、実働人口がかつてない勢いで減少しているために、生産の伸びが得られないのだそうだ。さすがのマルクスもエンゲルスも、こんな事態はもちろん全く予見できなかった。


 予見できなかったと言えば、社会主義が言論弾圧やバカげた個人崇拝のおかげで、地に落ち果てるまでに評判を落としてしまうような事態になるとは。民主主義の最も進んだ形であるはずの社会主義が、民主主義の正反対のものに堕落してしまうとは。泉下のマルクス・エンゲルスの嘆きはいかばかりであろう。


 過剰生産恐慌が相変わらず人々を脅かし続けているのも、また技術の進歩が次々と工場での労働力を不要にしていき、その結果、産業予備軍と呼ばれる大量の失業者たちが苦しんでいるのも、マルクスとエンゲルスが言った通りである。だが、民主主義思想の進歩によって、諸国は人間の生存権を認め、ある程度、社会保障制度を充実させるようになった。経済活動の不安定さはあい変わらずであっても、その結果、失業したり困窮したりという人には、国家が救いの手を差し伸べるようになったのである。

 これは、もちろん人権思想の発展と勝利の一里塚でもあったのだが、他面では、革命を恐れる独占資本が、革命の防止のために受け入れた改革だったのだろう。周知のように社会権(生存権)の承認はドイツのワイマール憲法に始まる。つまりはロシア革命の直後のことなのであって、社会主義思想の影響であることは誰にも否定できまい。


 そうやって、資本主義は生き延びてきた。ひとつには他方での社会主義体制の堕落に助けられたし、また、労働者人口を「第3次産業」に絶え間なく流し込むことによって、大工業プロレタリアートを弱体化させるのに成功したのも大きかったのではないか。先進国における第3次産業の肥大化というのも、マルクス・エンゲルスが予見できなかった事態の一つだったと思う。

 それとともに、日本を含む「先進国」が、結束して多数の「後進国」を食い物にし、特権的な経済的繁栄を続けてきたことも忘れてはならない。日本でいえば、自動車・鉄鋼などの花形業種の「労働貴族」を形成し、労働組合を飼いならしたのはほんの手始めに過ぎなかったので、やがてはいつの間にか人民全体が独占資本に買収されてしまったのだ。「障害者自立支援法」はじめ、どんなに弱者が切り捨てられても知らんぷりなのに、たった数パーセント消費税が上がるとか所得税が上がるとかいうと理屈抜きで大騒ぎになってしまう現実は、いかに人々が「この私の、この生活レベル」だけに固執する根性に凝り固まっているかをよく示していると思う。消費税ができたときだって、本当にそれによって生存がおびやかされかねないような極貧の人たちが中心になって反対したのではなく、おめでたくも「自分は中流だ」と思っている、平均的な多数の下層民が、躍起になって反対していたように見えた。

そうやって人民のほとんどが買収されてしまった世の中だから、どうやら、経済的平等をめざして労働者階級が権力を掌握するような革命の道は、もう見失われてしまった。とりあえず、社会主義革命なんてものは、もう無理でしょう。

 だが、まだ輝きを失っていない、むしろ輝きを増しながら続いてきたのが、人権思想である。どんな人も人間らしく生きる権利があるということ、この「社会権の承認」は、本来、弱肉強食を本質とする資本主義にとっては異物もいいところなのだが、社会主義思想の方から資本主義がやむなく取り入れたものである。日本においては現憲法の制定時に承認された。

 これが大切な宝物だと僕は思う。これから世の中を良くしていける手がかりが何かあるとすれば、それは人権思想の進化と拡大だという気がする。その意味で、「福祉」はこれからのキーワードである。ある意味、恐慌になろうが不景気が続こうが会社が潰れようが、それは仕方がない。資本主義を選んでいるのだから、それを避けることはできない。どんな大企業でも潰れるときは潰れる。だが、そのときに、放り出された人々をちゃんと救う、最低保証が確保されていればいいのだ。



 マルクス・エンゲルスは、社会変革を実現していく上での物質的な根拠を探求し、それをつきとめた。生産力の発展が推進力となって、資本主義が社会主義にとってかわられざるを得ないという、客観的必然性を彼らは発見した。その点で、僕はマルクスとエンゲルスは根本的に正しかったと思っている。現にパリ=コミューンが一時は成立したし、ロシア革命はとにもかくにも70年にわたって存続し、社会主義世界は、一時は資本主義世界とタメを張るほどの勢力があった。不出来な弟子たちの力不足でついに失敗に終わったけれど、マルクスとエンゲルスの科学的社会主義理論は、その正しさを十分に立証したと僕は思う。

 ただ、百年以上の歳月を経た今、弟子たちのあまりの不出来のせいもあって、彼ら二人が(当然にも)予見し得なかった事態がいろいろと起きた結果、今日では、かれらが予見し得た範囲を遠く超えたところにまで、世の中が進んで来てしまったというだけのことである。


 しかし、社会が根本的に変わるべき必然性を、物質的な条件から導き出して、みごとに解明したマルクス・エンゲルスにひきかえ、「人権思想」にこれからの進歩の砦を求めるとは、何という観念論であろう。僕は「空想的社会主義」者に後退したことになるのだろうか。

 だが、社会主義が惨めな敗北を喫した今、社会進歩をめざす陣営が獲得してきた、そしてこれからも依拠できる陣地は、社会権の承認を核とする基本的人権の思想だけだと僕は思うのだ。人間の世の中であるから、人間の意思が最終的に決定的な力を持つ。議会制民主主義は日本ですら100年以上の歴史を経過して、それなりに定着した。19世紀に比べて、言論と社会的意識が持つ力は、はるかに大きくなっている。

 そして、少なくともタテマエのレベルでは反人権的な主張は相手にされなくなっている。たとえば今の日本で「働くことができない障害者や老人には死んでもらおう」などというナチズム的主張がマトモなものとして取り上げられる気遣いはあるまい。この「力関係」(というべきか、あるいは民度の到達点というか)は、それなりに大したものだと僕は思うのだ。ここに至るまでに、部落解放同盟や青い芝の会、フェミニストたちなどの闘いが----ときに「過激」にすぎたり偏狭にすぎたり、利権におぼれて一部が腐敗したり、いろいろあったにせよ----どんなに大事な役割を果たしてきたかを忘れてはならない。

 社会主義革命にどれほど接近したかという観点からすれば、第二次大戦後、後退につぐ後退を重ねてきた日本と世界だが、人権思想の質的・量的な進化拡大という観点からみれば、巨大な進歩をとげてきたと言い得る。これはやはり、人権思想というものが、人間が人間であろうとする限り、無条件に正しい立脚点だからだろう。人類の歴史とは人権を拡張する歴史だったのだし、それが人類の進歩の指標であったと言える。これはマルクスたちも実質的に認めていたことである。

 そうういわけで、僕は、人権擁護の活動・弱者の生存権を守る活動、そして政治に対するその要求を成熟させるための言論活動が、世の中を良くしていくために大切だと思う。

 だが僕はマルクスやエンゲルスのような天才ではない。本当は、今の世の中を「こう変えていける必然性がある」ということを、物質的な条件にもとづいて、自然史的な科学性をもって説明できるはずであろう。非才にしてそれがかなわぬ僕は、やむなく言論活動・思想闘争の活動によって世の中に働きかけることに望みをかけるのだろう。

 ただ、もしかしたら、今の時代には、実際にそれが何よりも大切で、そこにこそ世の中を良くしていく鍵が、本当にあるのではないか、という気もするのである。言論の自由があって情報が自由に行き交う今日では、人類にとって多分本源的なものたる「人権思想」は、戦後、社会主義革命が遠のく一方の反動的な歴史過程であったにもかかわらず、逆に、ほんのわずかずつではあっても、その内容を進化させつつ、浸透を続けてきた。ひとくちで言えば、世の中は悪くなる一方のようでいながら、実はそうではない。反差別・人権擁護に関しては、戦後の60余年で飛躍的な前進があったのである。

 こんなに自ら発展する力を内包している思想というのは、なかなか、只者ではない。人権思想はこれからも前進する。それは、人間が人間であろうとすれば必ず認めていかざるを得ない、人類普遍の原理だからであろう。


 まだまだ、人類社会は、捨てたものではない。ナントカJPなんて吹けば飛ぶような会社やらMIDIピアニストなんかは、はなかく消え去るしかないかも知れないが、世の中はきっと、多少の紆余曲折や一時的な後退はあっても、必ず基本的人権をヨリ尊重する世の中へと進歩していくに違いない。そうであれば、日本国が中国の属国になろうが失業者が1000万人になろうが、そんなことはどうでもいいとも言えるのである。


 ちなみに僕は、日本のレベルでは「極貧」といわれるレベルの生活を続けてきたからだろうが、個人的には、いまの年金水準を維持する必要なんかないと思っている。もちょっと、経済的の面では、みんな我慢した方がいいのじゃないかね。どうせこれから圧倒的な中国の経済力によって打ちひしがれ、またその政治的な圧力にも終始怯えさせられて、小さくなって生きていかなければならなくなるのは目に見えているのだ。何とか寝起きできる場所があって何か着るものがあって何とか健康を維持できる程度に食えてるんなら、そして、何かひとつ二つ、好きで取り組める楽しみのタネがあるなら、それ以上を望むべきではなかろう。

 だが、そういう、例えばいまの僕と大差ないレベルの暮らしをしなきゃいけない人が多数になってきたとき、「1%の富める人たち」が贅沢を謳歌している世の中の現実を、人々がどう思うようになるかは、知らないよ。毎日新聞の女性スポーツ記者さんが、ダルビッシュ投手のような人が日本にとどまってくれるように、プロ野球界は努力してもっと選手年棒のレベルを上げていくべきだと言っていたが、僕なんかはバカバカしくて。ダルビッシュ投手も浅尾投手もすばらしい野球選手だと思うけれど、息子といくつも違わない青年が何億とか、ねぇ。

 今はまだ、負け組も失業者も、何とか「余裕で健康かつ文化的」に暮らせている。だが、ものすごくたくさんの人たちが、「ギリギリ、健康で文化的と言えるかも」ぐらいで我慢しなきゃいけない世の中になったときに、東京電力のチョット偉い人たちが平均で千何百万円だとか、天下りの法人役員の退職金が何千万円だとか、そういうコトに対して、みんなが「そりゃ仕方ない」と思っていられるかどうかね。それは知らんよ俺は。

(付記・思いつくままに一気に書いたため話の重複や脱線、それに不適切な言い方もありましたので、少し整理しました。2月2日)


悪夢

 3~4歳ごろかと思われる幼い娘と、10歳前後かと見える息子が登場する夢を見た。つまり、時は10年余り前にさかのぼった場面である。と言っても、娘は幼いころの本人によく似ていたが、息子のほうは実際の息子とあまり似ておらず、むかし学習塾で教えていたころに手を焼いた、ある少年に似ていた。だが、夢の中ではその少年を息子と認識していたのである。

 僕は二人を風呂に入れていて‥‥と言っても、家の風呂のようではなく、もやに隠れて周囲はよく見えないが、かなり広い浴場のようであった。僕は娘の髪を洗ってやっているところで、息子にシャワーを用いて流すのを手伝うように命じた。すると息子は、無闇と噴出を強くして僕と娘に浴びせかけるので、とくに娘が苦しがる。(髪を流してやるならしゃがんで俯くようにでもさせるところだろうが、そこは夢のこととて、娘は僕の膝に腰掛けるようにして体を起こしていた。)

 僕は怒り、ここからは僕と息子が対峙する。僕が息子の行いの不適切を叱ると、息子は素直に非を認めず、わざとやったわけではない、良かれと思ったのだと言って、まるでとりあわない。僕がどんなに激怒して怒鳴り散らしても、平気な様子でせせら笑うふうである。

 しまいに僕は手近にあった何か重いもの(何であるかわからないが、とにかく重そうな金属製らしい丸いものだった)を息子に向かって蹴りつけるか投げつけるかしたい衝動をおぼえた。だが、「わざとやったんじゃないのに」とつぶやく息子の声がしたと思ったら、そこで目が覚めた。

 時計を見るとまだ午前5時だった。仕事に疲れて午前2時に就寝してから、まだ3時間しか経っていない。それなのに完全に覚醒して目が冴えた。よほどに興奮してアドレナリンを分泌させてしまったものとみえる。


 眠れないままに、今みたばかりの夢(たいてい夢などすぐに忘れてしまうので、こんなによく覚えているのは珍しいことだ)を反芻するにつれ、今さらながら禄でもない親だった自分を思った。


 実際の息子は妹をじつによくかわいがってくれて、喧嘩らしい喧嘩になっているのを見た覚えが僕にはほとんどないというだけでなく、娘から兄についての苦情を聞いたことなどまずなかったし、また息子が妹について苦情を訴えるのも聞いた覚えがない。本当に仲の良い兄妹だったし、娘が高校生、息子が社会人になった今でもそうである。「小さいころ兄によくいじめられた」などと語る女性は珍しくないと思うが、この子らを見ている限りはありえない話のように感じる。

 だが、僕はそのことを自慢するのではない。息子に対して、両親が無言のうちに(しかもほぼ無意識に)「やさしい、よい兄であること」を、途方もないほど厳しく求めていたのだろうと思う。妹が生まれる前から二人の「立派な」親----子供の目から見れば、賢く思慮深く、それでいて恐るべき癇癪持ちの親だったことだろう----に完全に押さえ込まれていて、つねに「理想的な良い子」であろうと(その役割を演じようと)努め続けてきた息子は、妹との関係で「良き兄」像から少しでも外れることがあったら、どんなに酷く叱られるであろうかと、心底おびえ切っていたのではないか。

 もちろん、妹を本当に心から愛し可愛がっていたのも事実だと思う。だが、子供どうしの関係で、妹に対して腹が立つことや理不尽に感じることが絶無であったはずはなかろう。息子はそのすべてに対して、厳重に封印をして耐え抜いたのだろうと僕は想像するのである。しかも兄に対する苦情を娘の口から聞いた覚えがないのに至っては、今にして思えばそれ以上に驚くべきことであって、まさに息子が妹に対していかに完璧に気遣い続けてきたかを証しているだろう。というのも、息子は小さいときからあまり自己主張の強い方ではなかったが、娘は----今はともかく----生来的には利かん気な方であって、周囲の力が弱ければかなり我侭な性格に育つ可能性もあったと思う。その娘が、兄について文句を言っているのを聞いた覚えがないのだから、これはよほどのことであったろうと考えざると得ない。

 「わざとじゃないのに」と夢の中の息子は言った。実際の息子本人も、妹との小さな行き違いのときに、そう言って突っぱねたい場面は無数にあったろう。だが、妹に対しては神のような寛容さで接することを自分に課していたのに違いない。また親の言うことに逆らいたく感じたことも、幾度となくあったに決まっている。だが、それは絶対に許されなかった。子供が非を認めなかったりしようものなら、どんな猛烈な暴力に訴えてくるかわからないような、圧倒的な恐ろしさを親に対して感じていたのだろう。

 息子が子供のころ、僕は学習塾をやっていて、実際に「怖い塾長」であったし、経営不振やら保護者との対人関係やらいろんなことが原因で基本的にかなりイライラしていたから、そんな気配を発散していたとしても無理はないという気がする。もちろん、実際に「重い金属製のもの」を投げつけるなどしたらそれは殺意ある行為であって、まさかそんなことをしたろうとは思えないが、夢の中の僕は一瞬その衝動を感じている。それぐらいのすさまじい激怒のエネルギーが父親の中に潜在しているのを、もしかしたら息子は感じ取っていたのかも知れない。そして、我が子のそのようなおびえが、逆に僕の潜在意識に投影して、今回の夢に出てきたのではないかという気がするのである。


 娘に対してもだが、とくに息子に対して、僕は実に禄でもない親だった。今はもう息子も22歳になり、僕が何をしてやれるわけでもない、一人の社会人として苦労しているが、いくつになろうと、困ったとき、助けが必要なときには、訴えてきてほしいと願ってやまないものがある。もちろんそんなにひどく困らずに生きていけていれば、それがいちばんいい。息子が自分なりに人生に手ごたえをつかみ、明るい気持ちで生きていける日々が続くようになったら、昔はすまなかったなぁと言いながらしみじみと酌み交わすこともできようか。


新シリーズのリリース

 同僚高橋の奮闘のおかげで、9月1日付発売の製品がすべて完成した。すでにWeb販売特約店「電脳音楽生活」には(チョットついでがあったので)納品をすませており、Webでの購入が可能となっている。

 問屋さんその他に対しては週明けから出荷が開始となる。いよいよ新シリーズ第一弾の製品群が世に出て行くことになった。

 いささかの自信がないでもないが、果たしてディーラーさんたちや市場の反応はどうだろうかという不安も、ないと言えば嘘になる。それは高橋も同じ気持ちのようだ。こればかりは「売ってみないとわかならない、売ってみればわかる」のが現代のマーケティングというものらしいので、どんな商品だって市場に投入してみるときには大なり小なり僕らと同じような不安を抱えながらのスタートになるのだろう。ましてや、僕らは「成功体験」に極めて乏しい。新しい企画について、いざともなれば不安が先立つのはやむを得まい。


 しかしとにかく、「この方向で行く」ことだけは固く心に決めている。どういう方向かを少し詳述するなら、

(1)フルート・ヴァイオリンおよび「リコーダー叢書」に収益を頼らない(頼っても無理だということが判明した)。

(2)初心に帰って「大人の本格的な趣味としての独奏リコーダーを提案する」という姿勢を徹底する(この場合の「独奏」は「小規模の重奏」を含む。逆に言えば原則として「大規模重奏」や「合奏」は含まない)。僕らの提案は、「今まで音楽演奏に縁がなかった」という人たちや、「以前は音楽(楽器など)をある程度やっていたが今の生活環境では十分に楽しめなくなっている」という人たちに、本格独奏楽器としてのリコーダーをお勧めすることである。(つまり既存リコーダーファンの人たちの需要に応えることは、もちろん否定するわけではないが、主目的ではない。)

(3)したがって、できる限りすべてのタイトルにつき、「初心者・初級者も手を出せるもの、初心者・初級者が買いたくなるもの」をめざして企画していく。このような製品は、上級者にとって「不要な要素を含む」ことにはなるだろうが、上級者にとっても「使い物にならず、買う気がしない」ものにまでは、ならないはずである。

(4)どうしても初級者には無理だと思われるもの(それは当然存在する)については、「作るが、配らない」。言い換えれば、制作・発表はしても、最低限しか製造しない(わずかしか売れないのはわかっているのだから)。これらは、リコーダーを始める人たちにとっての「将来のお楽しみ」を用意するもの、という位置づけとなる。

(5)見つけてもらいやすく、手に取ってもらいやすく、買ってもらいやすいものをめざして、製品の外見的体裁を可能な限り改良する。具体的には「リコーダーピース」におけるカラー表紙と腰帯の採用、そして企画を予定している教則的シリーズにおいてはノリ綴じ(平らな背)の採用が軸になる。

ということだ。


 なにしろ「ほとんどの人が知っているが、ほとんどの人に誤解されている」のがリコーダーなので、この楽器の良さを少しでも多くの人に知ってもらい、始めようかなと思う人にとって最適の入門手段を用意し提供することこそ、僕らがそもそも目標としていたことである。だから、それに向かって進んでいくのだ。この方向が、いつの間にか少しぼやけてしまって、迷走気味になっていたという反省が僕にはある。

 ピアノは弾きたい。だから、フルート用・ヴァイオリン用を通じて少しピアノに戻ってこられたのも、その意味では良かった。だが、リコーダー提案という目標からみればかなり脇道にそれた感もあった。「リコーダー叢書」にせよ、学校・施設などからの需要をすこしアテにした感じがあって、まぁ方向としてはそんなに間違ってはいなかったろうが、リコーダー提案の本旨からみれば、少し間接的というか回り道というか、そんな感じは否めない。しかも、その狙いは不発に終わったと言わざるを得ない。

 省みれば、ほんとうに、あれをやってもダメ、これをやってもダメ・・・の連続だった。だが、そういう中にあって、一貫して支持されてきたものもある。それが、教則的なタイトルなのである。

 だから、これからは、教則的な色彩の強い本にこだわって、常にリコーダーの世界へのエントリーを呼びかけていこうと思う。僕らがいちばん世の役に立てるのはここの部分なのだし、しかも、いちばんやりたいのもここの部分なのだから。


たいらな背表紙

 問屋のM楽器さんに行って、担当のUさんと話してきた。Uさんがウチの近所にお住まいなのをきいてビックリ。と言っても事務所からだと歩いて30分ほどかかるだろうが、スタッフ高橋の家からなら、おそらく10分とかかるまい。同じ町内ではなかったが、隣町である。

 まぁそれはどうでもいいのだが、そんなこともあって、「同じ大阪だし、何とかお互いに良い方向に向かえるように」との思いはUさんも持ってくださっていたようで、ありがたいことだ。およそ同年輩と見受けたが、たいへん誠実そうなかたであった。

 伺ったお話のなかで、純粋に技術的な問題として、造本の問題、ことには背表紙の問題がやはり大きいのだなぁということを痛感した。RJPの本のように中綴じ製本では「書店に置けるものにならない」というのである。楽譜製品であれば中綴じ製本のほうが絶対に使い勝手がいいわけだが、書店の棚では、ノリ綴じで背が平面になっている本でないと「お客さんに見つけてもらえない」。

 実際、各社とも製本はノリ綴じが圧倒的に多い。使い勝手なんか二の次なのだ。たしかに、見つけてもらって買ってもらえないことには話にならんからな。

 で、そういう造本にして、売れている本というと、「明日から使えるソプラノ・リコーダー ウケてナンボの一発芸!」であるとか、「ソプラノリコーダー名曲200選 ポップス・アニメ・映画音楽・・・」であるとか、「やさしく吹けるソプラノリコーダーの本 定番&ヒットソング」だとか・・・そういうことになる。

 ま、べつにリコーダーで何を演奏しようと勝手だが、こういうふうにリコーダーを軽く見る空気に反発することから僕は出発し、「本格楽器としてのリコーダー」を提案しようとしてきたわけだから、こんな流れに乗るわけには行かない。むしろ、こういう流れと有効に戦いたいのである。

 そのために、どうしても「ノリ綴じ製本」が必要なら「やったろやないけ」という気には、とりあえず、なった。せっかく出すなら、「大人がじっくり学ぶリコーダー」とか、「リコーダーを本来の姿で学ぼう」とか、「本物のリコーダーを学ぶ本」とか、「真のリコーダーを知る本」だとか、そういう挑発的な名前でもつけてやるかな。

 なにしろ、敵は「ウケてナンボの一発芸」だからね。



プロフィール

Author:モーツァルト工房
ようこそお越しくださいました。Webサイト・「モーツァルト工房」の日誌です。
私がディレクターをつとめている「リコーダーJP」も、よろしれければ一度ごらんください。

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